2014年6月4日水曜日

【書評】辛酸―田中正造と足尾鉱毒事件(城山三郎著、1979年)

本書は、足尾銅山鉱毒事件発生後、鉱毒被害地である谷中村を渡良瀬川の遊水池にして川の底に沈めてしまうという国の計画が強行された際、この日本最初の公害問題に激しく抵抗した田中正造や鉱毒被害民の泥まみれの生きざまを描く経済小説。

家屋を強制破壊、田んぼを水浸しにさせられるなどしても、鉱毒被害民の一部は村を離れず、正造とともに土地収用による強制買収を不服とする裁判を争うも、やがて正造は斃れ、村人は弱り、ついに切り崩されていく様子が描かれており、初期の公害問題への対応や影響を考える上で参考になります。


なお、平成5年版環境白書総説-第3章-第1節-2)において、この足尾銅山事件に関して、以下のとおり記述がありましたので、ご参考まで。
戦前における我が国の環境対策
 日本においても、明治維新を迎え、政府の殖産興業の積極的な政策もあり、近代的な製造技術が導入されていった。これに伴い、明治10年代には、工場周辺のばい煙、悪臭被害が発生しはじめた。また、山間部の鉱山や精錬所の周辺でも排水や排ガスによる被害が生じた。この時期において大きな被害を生じた事例としては、鉱山や精錬による被害、足尾銅山、別子銅山のような問題があった。
・・・足尾銅山の事例についてみると、鉱山の排水、鉱滓により下流の魚介類や農作物に被害が生じるようになり、被害者と原因者の間に被害補償や対策に関する示談が結ばれたり、政府により対策の命令が出されたが、なお対策が不十分で根本的な解決がなされず、被害地住民の強制的な移転という結末を迎えた。
 このように、初期の公害問題に対しては、・・・法制度の枠組みを作るという対応ではなく個別の問題としての対応がなされた。また、その対応も、実際の被害の発生があり、被害者の強い訴えがあって初めてなされるという面があり、後追い型の対応にとどまっていた。このため、公害による被害を受けた者は、泣き寝入りに甘んじるか、直接、汚染者と交渉するか、政府に指導、あっせん等を要請するか、あるいは損害賠償について訴訟に訴えるという手段しかとることができなかったのである。

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